明智家記掲示板
訪問の記念に記帳お願いいたします
Reload
投稿者
メール
題名
内容
<OBJECT>タグが利用可能です。
(詳細)
URL
[
ケータイで使う
] [
BBSティッカー
] [
書込み通知
] [
teacup.コミュニティ
|
画像
] [
検索
]
投稿募集! スレッド一覧
他のスレッドを探す
スレッド作成
[PR]
バイト高額
モバイル開発
山梨の求人・転職
seo
物流費
[
teacup.
] [
無料掲示板
] [
プレミアム掲示板
] [
teacup.ナビ
] [
無料ブログ
] [
チャット
]
【From teacup.】この掲示板は投稿が一定期間無いため、各記事中に広告を表示しています。
全249件の内、新着の記事から10件ずつ表示します。
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
|
《前のページ
|
次のページ》
明智城跡
投稿者:
土岐桔梗
投稿日:2009年 6月14日(日)21時48分43秒
大河ドラマでは、明智光秀の人間像に魅かれ、私の実家が代々土岐桔梗の家紋だった(土岐桔梗の家同士と婚姻)のと、「ガラシャ夫人」の最期にも涙する思いもあり、可児市にある岩村城ではないほうの明智城跡へ行ってまいりました。山手の見過ごしてしまうような、それは、住宅地の入り組んだ中にひっそりとたたずんでました。大きな看板もなければ、ただただ林と遊歩道と石碑のみ。
案内には、「斎藤道三に壊滅させられる」とありました。ここに、歴史上の人物が確かにいたと思うと大変胸が熱くなるのです。小さな櫓があって、そこから可児や美濃が見渡されました。同じように光秀もこの光景を見ていたのだろうかと、一瞬、時間がタイムスリップしたような。清和源氏の流れを継ぐ由緒ある明智家。帰宅後、明智家について検索していましたら、このホームページを見つけました。憲三郎さんの本、必ず読みますね。
427年
投稿者:
NONOGUCHI
投稿日:2009年 5月24日(日)18時42分41秒
編集済
はじめまして、私は明智光秀のファンで、縁が有って憲三郎さんの本を買いました。
今までに無い新しい視点から「本能寺の変」を見つめ直すと言う書き方、そして莫大な資料を調べられた事にとても驚きでした。
もしもこの本でドラマや映画化になれば光秀ファンとして申し分の無い作品になると思いました。
私も幼い頃から、丹波の豪族の末裔であると聞かされていたので、明智光秀の丹波攻略にとても興味があり光秀関係の書物を買ったところ、八上城攻めに登場、さらに近年では本能寺の変でも、その部隊にいた事が解りました。
波多野氏を迎えたと言う本目城、半国山東側で亀山側の険しい山にあり、敵将を迎えるには不自然?迎えるには、半国山西側で篠山よりの小さい埴生城(本目の支配城)の方が招きやすいのでは??さらに道中、波々部氏の所領を通らなけらばならず?と疑問に感じております。
さらば光秀
投稿者:
ろうばしん
投稿日:2009年 4月 6日(月)12時10分46秒
明智憲三郎さん
すばらしい本をありがとうございました。
一気に読み通し、これまでそれぞれ点でしかなった状況証拠が
一気に線、面となって現れてきたような気がします。
この著作によって、本能寺をめぐる謎には、終止符が打たれたと
思っております。何よりも明智さんの執念、そして光秀の血を
引かれているということが、本書を成立させることになったので
はないかと推察します。
歴史マニアとしては少々さびしい気もしますが、日本の歴史記述
がこれまで権威の下で、そうとう歪められてきたことに、光明が
さすきっかけになりそうで、本当にうれしい気がしました。この
謎を持ったまま、死ねないという気でおりました。
お疲れ様でした。ありがとうございました。
明智憲三郎さまへ
投稿者:
nobu
投稿日:2009年 3月30日(月)11時13分46秒
編集済
前略、明智さま、ご照会のamazonの書評を書かせていただいたものです。
まずは今回のご出版に対してご苦労程のを察し申し上げます。また、図らずも
自分自身、通説に何ら疑いを持たずに鵜呑みにしていた面のあったことをお教え
いただき感謝申し上げます。
書評にも書かせていただきましたが、まず最初に『惟任謀叛(退治)記』の意義に
言及されたことは、予てより我が自論でもあったことからもまさに「我が意を得たり」
との思いでした。そのうえで「愛宕百韻」について、その日次に詳細な論証を以って
異論を呈され、旧知の史料に対してもより詳細なご検証がなされていることには
感服いたしました。
>記載者の疑問としている点は放浪様と同じなのかもしれませんが、
>具体的にどのことなのかを把握して研究を深めていきたいと思います。
その上で申し上げたきことは多々ありますが、率直に申して、結局は貴兄もまた
「謀略史観」のセダクションに魅せられた一人であり、過去のそれらと同じ轍を
踏んでいると言わざるを得ませんし、何よりご自身が「秀吉の頚木」に囚われて
おられるのではないでしょうか。
そもそも、秀吉が「愛宕百韻」の光秀の発句に人々の目を向ける様に仕組んだ
という意図が明白である以上、まずはそれを脇に置いて考察を進めるべきで
あったと思います。
しかしながら、貴兄がそれを命題としたことで、史料的には裏付けられない曲解
混じりの無理な推論を重ね上げているとの感は否めません。
特に「家康討ち」については、当時そのような噂があったことは確かだった
でしょうが可能性としては皆無に等しく、むしろ信長には別の意図があったと
思われますから、今後その点を突いての批判、反論が寄せられることでしょう。
今回のご著書では、従来、謀叛の動機として注目されていた光秀や斎藤利三
といった個人から、「土岐」という一族における問題として論じられた点に
大いに傾聴すべき点があり、今後の本能寺の変の研究に一つの指針を与える
ことになったのではないかと存じます。
放浪公子様へ
投稿者:
明智憲三郎
投稿日:2009年 3月21日(土)20時53分22秒
拙著をお読みいただき、またご評価をいただき大変ありがとうございました。
本日のamazonの書評に私の目指す実証史学の視点から妥当と思われる書評が掲載されましたので、ご紹介いたします。記載者の疑問としている点は放浪様と同じなのかもしれませんが、今後具体的にどのことなのかを把握して研究を深めていきたいと思います。いずれにせよ方向性にご賛同を得る方々の存在は大変心強く思います。
【本能寺の変研究に新たな一石を投じるもの】
以前にも光秀の子孫を称する方による光秀冤罪論を主張した書籍があり、それは明らかに過去の作品から多くを引用した物ものであったが、本書はそれとは一線を画した研究書(著者曰く「歴史捜査」)だと言える。
光秀による謀叛の決意が秘められた「愛宕百韻」に対する新たな問題提起と、秀吉による情報操作の為の『惟任謀叛(退治)記』への注目、そして信長小姓の中、唯一の変の生存者にして情報提供者であったろう彌介の存在の指摘という著者の主張は、従来の研究の盲点を突いたものではなかろうか。
著者はまた「神君伊賀越え」にも異論を呈し穴山梅雪の死の真相と家康の行動に秘められた思惑にも迫っている。
他にも従来より知られている多くの史料、諸説に再検討が加えられており、著者が従来の研究(書)の類を入念に検証された努力の跡が窺える。ただ惜しむべきは、一部に過去の
研究と同じ轍を踏んだ憶測交じりの主張があることも否めない。その意味では「歴史捜査」というのは適切な表現かも知れない。
とは言え本書の出版は、本能寺の変研究に新たな一石を投じることになるのではなかろうか。
明智憲三郎さまへ
投稿者:
放浪公子
投稿日:2009年 3月14日(土)21時52分4秒
>本能寺の変 四二七年目の真実
初めまして。先週本屋でみかけて即買って読んでみました。
全面的に賛成とはいえませんでしたが、「通説」よりは納得できる内容が多かったように思えました。(特に状況証拠的に)
近年久しぶりに読んでなかなかおもしろかったと思えた本でした。
本能寺の変 四二七年目の真実
投稿者:
明智憲三郎
投稿日:2009年 3月14日(土)20時13分31秒
3月9日に拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』をプレジデント社から出版しました。
http://www.president.co.jp/book/item/330/1906-2/
従来の研究とは全く異なる科学的な手法(歴史捜査と名付けました)で研究し、真実を突き詰めました。紹介文中にありますように「読者は驚愕し、やがて深く納得する」ものと期待しています。全国書店やオンライン書店で販売していますので、ご一読いただき、解明した真実にご賛同をいただけると幸いです。
明智君さまへ
投稿者:
むらさき
投稿日:2009年 2月17日(火)22時07分0秒
いえ、私など最近は関連書も読まなくなってしまったので、
本当ならレスする資格もないんですよ。
でもせっかく書き込んで頂いてるのに、全くレスが無いのも
寂しいですし・・・
ただ、書き込んで頂いても聞いたことも無い様な説に対して、
レスさせて頂くのは考えてしまいますね。
むらさきさんへ
投稿者:
明智君
投稿日:2009年 2月13日(金)22時30分43秒
なるほど、さすが詳しいですね〜!
個人的には私もフロイスの書き残したものは信憑性が高いと思います。やはり宣教師側から見れば信長も光秀も秀吉も異常な人間に見えたんでしょうかね?フロイスも「彼らは哀れな死に方をした」とか「地獄に葬られた」とか言ってますしね!
明智光秀の子孫たち
投稿者:
押切宗平
投稿日:2009年 2月13日(金)11時08分39秒
明智十五郎たちは北へ北へと逃れた。千葉から福島へ、そこで家来ともども押切と改名、秋田院内銀山へ、その後京都賀川産科で活躍。京都を逃れ、再び子孫たちが京都へ、
高岡専太郎ーブラジル移民の赤ひげ先生。彼も子孫の一人、
無明舎018ー832ー5680刊
興味があったら読んでください。
以上は、新着順1番目から10番目までの記事です。
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
|
《前のページ
|
次のページ》
/25
新着順
投稿順